Valle de Angeles2009-09-22 15:28:18

今日は連休の4日目です。でも残念ながら今日は家で仕事をしています。初めてまじめに在宅勤務を経験しました。

朝9時にパソコンのメールを開いて、今日の仕事を確認し、ひとまず15時過ぎに本日の課題を終えたので、一服しながら書いています。

このあとまた何か追加の仕事が来たらもう一がんばりしなくては、、、、

さて、話題は変わります。 唐突ですが、今日のニュースで中米Hondulasの前大統領帰国のニュースが出ていました。どうやって国境を潜り抜けて入国したのだろうと思いますが、彼は今首都Tegucigalpaのブラジル大使館に居るのだそうです。また何か一波乱起こりそうな気がします。

僕がHondulasに居たのはもうはるかはるか昔のことですから、きっと現地はかなり変わっただろうと思います。街の景色等写真で見られたらうれしいのですが、そんな手段はなさそうです。

その昔、週末にValle de Angelesという土地に行きました。スペイン語のその名のとおり、まさに天使でもいそうななかなか風光明媚なところです。といってもあるのは松の山と林なのですが。

なぜこの場所を覚えているかというと、当時週末に家族でピクニックに行ったからです。今では年老いた父が古い(当時はそれほどでもなかったでしょうけど)Fordを運転して渓谷沿いの道を行くと山間にこの松の森があるのです。 いわゆる今で言う森林浴ですね。松の木陰で食事をして、ボール遊びをして、そんな過ごし方をしました。ただそれだけですが、それがその当時は新鮮だったのでしょう。なのでいまだにValle de Angelesという地名を覚えているのでしょう。

松の木といえば、こんな歌も覚えています。 Viva el pino por siemple en la tierra Que beniguna la vida nos dio Y por siemple ....

この先はほとんど記憶にありませんが、たぶん学校でこの歌を歌っていたのだと思います。いまだに思い出すスペイン語の唄のひとつです。

とはいえ、覚えているのは国家と校歌そして童謡そんなものかな。 そうそう、亡くなった母がよく聴いていたレコードの音楽も耳に残っていました。 なつかしいなぁ

だれか最近のTegucigalpaの様子をしらないだろうか。。。

Adriana2009-09-08 10:54:01

もうはるか40年も昔のこと。最近急に思い出して、ふとここに書きたくなりました。

当時僕は小学校の3年生。生まれて初めて日本を飛び出し、父の仕事で中米Hondulasにいました。秋の頃です。日本では東京のオリンピックが終わり、世の中が少し落ち着きかけた頃だったのだろうと思います。 東京とは打って変わった環境での生活を始めていました。

学校は私立の学校。Instituto Tegucigalpaというのがその学校の名前です。現地の中流以上の家庭の子供たちと一緒の生活をしていました。日本人は僕一人。言葉はまったく分からず、毎日校庭の片隅で一人たたずんでいたのを覚えています。

制服がグリーンと白っぽいベージュで、毎日制服を着て車に乗って学校に行きました。昼休みは一度家にもどって昼食をとり、また午後から学校に行くという生活です。

タイトルのAdrianaというのは実はその街にあったレストランの名前です。首都のTegucigalapaから南に車で向かい、小さなでも唯一の空港、トンコンティンを超えてさらに南下し、小路を下った渓流の近くにあったレストランです。木立の中にこじんまりとした小屋風の建物が建っており、木々にはたくさんのコンゴウインコが大きな声で騒いでいる風雅なレストランでした。時には人についてきたりします。あまりに大きな鳥なので、子供には少々恐怖さえ感じさせる、そんな変わった空間でもありました。建物の中に入ると、木製の床の上には松の葉っぱが敷き詰めてあり、なんとも良い香りがしたような記憶がありますが、定かではありません。

このレストランでお気に入りだったのは、タコス。トルティーヤに包まれて、中にジューシーなお肉が入っていておいしかったのを覚えています。それと真っ白なチーズのような日本の豆腐のような不思議な食べ物。家族が妙に気に入った食べ物でした。特に亡くなった母が好きだったのを覚えています。

なぜ、今になってこんなことを思い出したのでしょう?Adriana。辞書によると単に人の名前としか出ていませんでした。アドリア海と関係がある名前なのかも知れません。

昨日に続いてちょっと昔話をしてみました。

ボランティア2008-10-18 18:03:48

今日広尾にあるJICAに行って来ました。 海外協力隊のボランティア活動に興味があっての事です。

僕に何か出来る事があるのか知りたかったので、説明会に参加して来ました。 朝10時30分から始まって、広尾のJICA3階の講堂が結構広いのですが、ぱらぱらと人が来ていました。 青年海外協力隊ではなく、シニアボランティアなので年配者が多かったのは当たり前。でも結構頑張っているこのシニア世代は多いのですね。流されたビデオの事例を見て関心しました。

やっぱり自分も頑張らなくちゃと刺激を受けた様です。良い事ではあります。 さて、配布された要項を見ると、なかなか自分に合った仕事は見つかりそうにありません。 正直言うと要項に記載された要件が良く分からない点も多いのです。

何かに応募出来るかはちょっと疑問です。もう少し歳を取って、定年になる様な年齢になってからでも遅くないと言う気もしました。 今の状態で飛び出すとリスクが大きそうです。仮に今の会社に休職願いを出して受理されても、戻って来た時の自分への扱いが不安です。 かと言って退職して行ったらどうなるか、戻って来た時には仕事がないでしょう。これは多いに不安を感じる要素です。 つい先日辞表を提出する時期がやって来たと書いたばかりだけど、いざとなるとやはり不安なのです。

一方で、このように考えてしまう部分はありますが、でも仕事ができればそれも良いかなと言う気もします。中南米とかに2年くらい行って、人の役に立てるのも幸せなことだと思えます。募集は今月末までなので少し考えてみようと思います。

いっそCalifornia2008-08-23 16:43:45

BarrancaからMaruchan

会社で次の仕事が決まった話は先日しましたが、毎日この新しい仕事で悩み続けています。

僕としては決して歓迎する仕事先ではないからです。 最大の理由は転職する前の自分の会社だと言う事です。今更前の会社へ出て行ってコンサルタントでございと言って仕事をするのはとても気が引けます。

毎日毎日考えれば考えるほど嫌になる一方です。 いっその事転職しようかと思い、そんな活動もしてみました。しかしこれにはリスクが伴います。転職してそのままうまく新しい会社でやって行けるかどうかは、ある程度行ってみないと分かりません。もちろん、転職前の面接等に通る事が前提ですから、これも大きな壁となるでしょう。

転職がだめならどうするか?

今度の仕事を拒絶すると言うのも一つです。ただし、今後暫く仕事を貰えない事を覚悟する必要があります。会社の中での処遇も当然悪くなるでしょうし、最悪は自主退職を覚悟する必要があるかも知れません。

返す返すもCaliforniaが懐かしくなって来ます。 行く前はあまり乗り気ではなかったCalifornia。その上行ってから彼女から貰ったMailでますます早く帰国したくなったのですが、それでも今となっては帰りたい気持ちになっています。 暫く彼女と会えなくなる事を考えてしまいますが、仕事だけを考えると向こうの仕事の方が良かったなぁ。

いっそCaliforniaで転職でも考えるか?とはいえ前回はVISAなし渡航だったから、転職は無理だろうし。。。。

毎日悩んでいるので胃がむかむかしてきます。 その上何もする気力が起きなくて、今日も何にもしていません。 困った!

明日は彼女と会う約束があるので、少し楽しい時間を過ごして少しでもこの悩みを忘れたいと思います。

Hondurasの思いで2008-08-12 21:43:24

ちょっと今日もこだわっていますね、少年期の思いでに。

僕がHondurasに行ったのは、メキシコでオリンピックが行われる前の事です。Tokyoでオリンピックがあってその直後でした。随分遥か昔の事の様に思います。

当時は羽田空港からCanadian Pacificその後CPAirと呼ばれる様になり、さらにその後Air Canadaに合併された航空会社の飛行機でバンクーバー経由メキシコシティへ行きました。

もちろん生まれて初めての飛行機の旅です。子供の僕にはたとえエコノミークラスだろうと格別な世界に感じました。

東京の下町生まれの下町育ちだった僕が、滅多に乗る事なんて出来ない飛行機に乗って海外に行くなんてとっても想像を超えた世界だったと思います。

そして生まれて初めて見たメキシコの街。当時は大きなアメ車が街の中を走っていたと思います。メキシコの空港からホテルに向かった時の車はシボレーでした。車なんてまず滅多に見る事もなかった日本からいきなり大型のアメ車に乗ってホテル入りだなんて、随分恐れ多い事だと思います。

そして翌日メキシコからプロペラ機で向かったのがHondurasでした。トンコンティンと言う面白い名前の空港に着いて、どんな思いだったのだろうと思います。

さしあたって家を見つけるまでの間暫く泊まったホテルの事は未だに思い出します。ホテル サボイと言う名前でした。 毎日ホテルの部屋から外を見ていた母がある日意を決してホテルの前の小さなお店で初めて買い物をしました。日本では高級品と言って良いバナナでした。 その日の母が少し興奮気味で嬉しそうだったのを思い出します。

当時の動画が実は今も残っています。父がカメラ好きだったせいで、8ミリビデオを撮っていたのです。音がないのが何とも残念ですが、画期的ですよね。昭和30年代の動画なのですから。何とかこのビデオをDVDに残して、もう一度見直したいと思います。まさに西岸良平の世界が中米の小国に飛び出してしまった世界です。

学校に通う様になった僕と妹が家の庭で制服を着て動いているのが不思議な感じです。9月15日は特別な行事があって、学生は制服を着てスタジアムまで行進するのですが、低学年だった僕らはその行進に加わる事が出来ずに、制服だけ来てまねっこをしているのです。

なつかしいなぁ。。。。 もう二度と戻らない世界。

なんだか思い出が思い出を呼んで話が進みそうな気がして来ました。