Adriana2009-09-08 10:54:01

もうはるか40年も昔のこと。最近急に思い出して、ふとここに書きたくなりました。

当時僕は小学校の3年生。生まれて初めて日本を飛び出し、父の仕事で中米Hondulasにいました。秋の頃です。日本では東京のオリンピックが終わり、世の中が少し落ち着きかけた頃だったのだろうと思います。 東京とは打って変わった環境での生活を始めていました。

学校は私立の学校。Instituto Tegucigalpaというのがその学校の名前です。現地の中流以上の家庭の子供たちと一緒の生活をしていました。日本人は僕一人。言葉はまったく分からず、毎日校庭の片隅で一人たたずんでいたのを覚えています。

制服がグリーンと白っぽいベージュで、毎日制服を着て車に乗って学校に行きました。昼休みは一度家にもどって昼食をとり、また午後から学校に行くという生活です。

タイトルのAdrianaというのは実はその街にあったレストランの名前です。首都のTegucigalapaから南に車で向かい、小さなでも唯一の空港、トンコンティンを超えてさらに南下し、小路を下った渓流の近くにあったレストランです。木立の中にこじんまりとした小屋風の建物が建っており、木々にはたくさんのコンゴウインコが大きな声で騒いでいる風雅なレストランでした。時には人についてきたりします。あまりに大きな鳥なので、子供には少々恐怖さえ感じさせる、そんな変わった空間でもありました。建物の中に入ると、木製の床の上には松の葉っぱが敷き詰めてあり、なんとも良い香りがしたような記憶がありますが、定かではありません。

このレストランでお気に入りだったのは、タコス。トルティーヤに包まれて、中にジューシーなお肉が入っていておいしかったのを覚えています。それと真っ白なチーズのような日本の豆腐のような不思議な食べ物。家族が妙に気に入った食べ物でした。特に亡くなった母が好きだったのを覚えています。

なぜ、今になってこんなことを思い出したのでしょう?Adriana。辞書によると単に人の名前としか出ていませんでした。アドリア海と関係がある名前なのかも知れません。

昨日に続いてちょっと昔話をしてみました。

ボランティア2008-10-18 18:03:48

今日広尾にあるJICAに行って来ました。 海外協力隊のボランティア活動に興味があっての事です。

僕に何か出来る事があるのか知りたかったので、説明会に参加して来ました。 朝10時30分から始まって、広尾のJICA3階の講堂が結構広いのですが、ぱらぱらと人が来ていました。 青年海外協力隊ではなく、シニアボランティアなので年配者が多かったのは当たり前。でも結構頑張っているこのシニア世代は多いのですね。流されたビデオの事例を見て関心しました。

やっぱり自分も頑張らなくちゃと刺激を受けた様です。良い事ではあります。 さて、配布された要項を見ると、なかなか自分に合った仕事は見つかりそうにありません。 正直言うと要項に記載された要件が良く分からない点も多いのです。

何かに応募出来るかはちょっと疑問です。もう少し歳を取って、定年になる様な年齢になってからでも遅くないと言う気もしました。 今の状態で飛び出すとリスクが大きそうです。仮に今の会社に休職願いを出して受理されても、戻って来た時の自分への扱いが不安です。 かと言って退職して行ったらどうなるか、戻って来た時には仕事がないでしょう。これは多いに不安を感じる要素です。 つい先日辞表を提出する時期がやって来たと書いたばかりだけど、いざとなるとやはり不安なのです。

一方で、このように考えてしまう部分はありますが、でも仕事ができればそれも良いかなと言う気もします。中南米とかに2年くらい行って、人の役に立てるのも幸せなことだと思えます。募集は今月末までなので少し考えてみようと思います。

いっそCalifornia2008-08-23 16:43:45

BarrancaからMaruchan

会社で次の仕事が決まった話は先日しましたが、毎日この新しい仕事で悩み続けています。

僕としては決して歓迎する仕事先ではないからです。 最大の理由は転職する前の自分の会社だと言う事です。今更前の会社へ出て行ってコンサルタントでございと言って仕事をするのはとても気が引けます。

毎日毎日考えれば考えるほど嫌になる一方です。 いっその事転職しようかと思い、そんな活動もしてみました。しかしこれにはリスクが伴います。転職してそのままうまく新しい会社でやって行けるかどうかは、ある程度行ってみないと分かりません。もちろん、転職前の面接等に通る事が前提ですから、これも大きな壁となるでしょう。

転職がだめならどうするか?

今度の仕事を拒絶すると言うのも一つです。ただし、今後暫く仕事を貰えない事を覚悟する必要があります。会社の中での処遇も当然悪くなるでしょうし、最悪は自主退職を覚悟する必要があるかも知れません。

返す返すもCaliforniaが懐かしくなって来ます。 行く前はあまり乗り気ではなかったCalifornia。その上行ってから彼女から貰ったMailでますます早く帰国したくなったのですが、それでも今となっては帰りたい気持ちになっています。 暫く彼女と会えなくなる事を考えてしまいますが、仕事だけを考えると向こうの仕事の方が良かったなぁ。

いっそCaliforniaで転職でも考えるか?とはいえ前回はVISAなし渡航だったから、転職は無理だろうし。。。。

毎日悩んでいるので胃がむかむかしてきます。 その上何もする気力が起きなくて、今日も何にもしていません。 困った!

明日は彼女と会う約束があるので、少し楽しい時間を過ごして少しでもこの悩みを忘れたいと思います。

Hondurasの思いで2008-08-12 21:43:24

ちょっと今日もこだわっていますね、少年期の思いでに。

僕がHondurasに行ったのは、メキシコでオリンピックが行われる前の事です。Tokyoでオリンピックがあってその直後でした。随分遥か昔の事の様に思います。

当時は羽田空港からCanadian Pacificその後CPAirと呼ばれる様になり、さらにその後Air Canadaに合併された航空会社の飛行機でバンクーバー経由メキシコシティへ行きました。

もちろん生まれて初めての飛行機の旅です。子供の僕にはたとえエコノミークラスだろうと格別な世界に感じました。

東京の下町生まれの下町育ちだった僕が、滅多に乗る事なんて出来ない飛行機に乗って海外に行くなんてとっても想像を超えた世界だったと思います。

そして生まれて初めて見たメキシコの街。当時は大きなアメ車が街の中を走っていたと思います。メキシコの空港からホテルに向かった時の車はシボレーでした。車なんてまず滅多に見る事もなかった日本からいきなり大型のアメ車に乗ってホテル入りだなんて、随分恐れ多い事だと思います。

そして翌日メキシコからプロペラ機で向かったのがHondurasでした。トンコンティンと言う面白い名前の空港に着いて、どんな思いだったのだろうと思います。

さしあたって家を見つけるまでの間暫く泊まったホテルの事は未だに思い出します。ホテル サボイと言う名前でした。 毎日ホテルの部屋から外を見ていた母がある日意を決してホテルの前の小さなお店で初めて買い物をしました。日本では高級品と言って良いバナナでした。 その日の母が少し興奮気味で嬉しそうだったのを思い出します。

当時の動画が実は今も残っています。父がカメラ好きだったせいで、8ミリビデオを撮っていたのです。音がないのが何とも残念ですが、画期的ですよね。昭和30年代の動画なのですから。何とかこのビデオをDVDに残して、もう一度見直したいと思います。まさに西岸良平の世界が中米の小国に飛び出してしまった世界です。

学校に通う様になった僕と妹が家の庭で制服を着て動いているのが不思議な感じです。9月15日は特別な行事があって、学生は制服を着てスタジアムまで行進するのですが、低学年だった僕らはその行進に加わる事が出来ずに、制服だけ来てまねっこをしているのです。

なつかしいなぁ。。。。 もう二度と戻らない世界。

なんだか思い出が思い出を呼んで話が進みそうな気がして来ました。

少年の頃の思いで2008-08-11 21:37:50

ちょっと唐突なのですが、Irvineでメキシカンの人々と接したせいか、ちょっと子供の頃の事を思い出してしまいました。

少年期の思い出って時に強烈に記憶の中に残っている事ってあるように思うのです。 僕はその少年期を地球のはてで送ったせいか、その時の記憶が時に鮮烈に思い起こされたりします。

僕がいた中米の小国Hondurasはとても貧乏な国でした。そして今もそうかも知れません。 街中には裸足で物を売り歩く少年少女の姿が頻繁に見られました。車に乗って移動している時にも、信号待ち(実は当時首都Tegucigalpaには信号がたった一カ所しかありませんでした。)信号以外は皆お巡りさんの手信号でした。その信号待ちの中で彼らが色々物を売り歩いてくるのです。

一番記憶にあるのは新聞売りの少年です。大きな声で新聞の名前を言って売り歩く少年達には頻繁に会いました。僕とほぼ同年の子供達が一生懸命に物を売っている、その姿に僕は物を言う事が出来ませんでした。先日Chiquirin de bachinを自分の葬儀の時に流したいと思った理由にこの思い出が重なっているのかもしれません。

そして、もう一つ印象が深いのは子供達の葬儀の列の多かった事です。 街中で車の渋滞があると思うと、そのうちの原因の多くは葬儀の列が道路を塞いでいるせいでした。小さな白い棺を担いだ大人達が道路を悲しみにくれてゆっくり歩いて行く姿は子供の頃の僕には強烈な印象を残しています。こうした葬儀の列は頻繁にありました。それだけ衛生面から子供の死亡率が高かったのだと思います。

僕の家にいたRositaと言うメイドさんの子供がある日なくなりました。彼女は未婚の母でした。仕事の休みをとってふるさとに帰っていた彼女が涙に暮れて帰って来たのを覚えています。たった一人の息子さんを亡くしたのです。一度その子供を遊びに連れて来た事がありました。自分の事をCaballoと呼ぶ可愛い子でした。その最愛の息子を亡くしたRositaの悲嘆はとっても大きかったのだと思います。子供の僕にもそれが十分に伝わりましたから。

母はその時Rositaの為に息子さんの遺影を作って飾ってあげました。貧乏で写真すらまともに撮る事が出来なかったRositaの喜びようを今も覚えています。

人の悲しみに特に心をうたれる様になったのはそうした僕の少年期の経験によるのかもしれません。 その優しかった母も既にこの世を去って17年。せめて僕が幸せに暮らして母にいつかその話をする事が出来ればと思っています。