焦りの日々2008-08-11 10:09:58

昨日からなんだか胸がどきどきして、何も手がつかなくなってしまいました。 毎日カウントダウンしていくような感じです。

頭の中では「どうしよう、どうしよう」と言う声が響き渡っています。そしてその声にますます僕の心臓は鼓動を早めていくようです。

この焦りはもちろん彼女が旅行で日本から居なくなってしまうことへの焦り。そしてきっと僕から離れていってしまうだろうと言う恐怖。でも僕にはどうすることも出来ないし、何もする権利はありません。彼女の自由は尊重しなければいけないと思っています。

ただ、そうは思っていても僕の体は頭脳の指示通りには動いてくれていないみたい。ただただ居なくなってしまう前に何かをしなければと気が急くばかりなのです。

こういう時の心の落ち着け方を僕は身に着けてはいないようです。

仕事がないのでますますこの焦りは募っていくばかり。

深刻だなぁ。。。。。。

少年の頃の思いで2008-08-11 21:37:50

ちょっと唐突なのですが、Irvineでメキシカンの人々と接したせいか、ちょっと子供の頃の事を思い出してしまいました。

少年期の思い出って時に強烈に記憶の中に残っている事ってあるように思うのです。 僕はその少年期を地球のはてで送ったせいか、その時の記憶が時に鮮烈に思い起こされたりします。

僕がいた中米の小国Hondurasはとても貧乏な国でした。そして今もそうかも知れません。 街中には裸足で物を売り歩く少年少女の姿が頻繁に見られました。車に乗って移動している時にも、信号待ち(実は当時首都Tegucigalpaには信号がたった一カ所しかありませんでした。)信号以外は皆お巡りさんの手信号でした。その信号待ちの中で彼らが色々物を売り歩いてくるのです。

一番記憶にあるのは新聞売りの少年です。大きな声で新聞の名前を言って売り歩く少年達には頻繁に会いました。僕とほぼ同年の子供達が一生懸命に物を売っている、その姿に僕は物を言う事が出来ませんでした。先日Chiquirin de bachinを自分の葬儀の時に流したいと思った理由にこの思い出が重なっているのかもしれません。

そして、もう一つ印象が深いのは子供達の葬儀の列の多かった事です。 街中で車の渋滞があると思うと、そのうちの原因の多くは葬儀の列が道路を塞いでいるせいでした。小さな白い棺を担いだ大人達が道路を悲しみにくれてゆっくり歩いて行く姿は子供の頃の僕には強烈な印象を残しています。こうした葬儀の列は頻繁にありました。それだけ衛生面から子供の死亡率が高かったのだと思います。

僕の家にいたRositaと言うメイドさんの子供がある日なくなりました。彼女は未婚の母でした。仕事の休みをとってふるさとに帰っていた彼女が涙に暮れて帰って来たのを覚えています。たった一人の息子さんを亡くしたのです。一度その子供を遊びに連れて来た事がありました。自分の事をCaballoと呼ぶ可愛い子でした。その最愛の息子を亡くしたRositaの悲嘆はとっても大きかったのだと思います。子供の僕にもそれが十分に伝わりましたから。

母はその時Rositaの為に息子さんの遺影を作って飾ってあげました。貧乏で写真すらまともに撮る事が出来なかったRositaの喜びようを今も覚えています。

人の悲しみに特に心をうたれる様になったのはそうした僕の少年期の経験によるのかもしれません。 その優しかった母も既にこの世を去って17年。せめて僕が幸せに暮らして母にいつかその話をする事が出来ればと思っています。

Hondurasの思いで2008-08-12 21:43:24

ちょっと今日もこだわっていますね、少年期の思いでに。

僕がHondurasに行ったのは、メキシコでオリンピックが行われる前の事です。Tokyoでオリンピックがあってその直後でした。随分遥か昔の事の様に思います。

当時は羽田空港からCanadian Pacificその後CPAirと呼ばれる様になり、さらにその後Air Canadaに合併された航空会社の飛行機でバンクーバー経由メキシコシティへ行きました。

もちろん生まれて初めての飛行機の旅です。子供の僕にはたとえエコノミークラスだろうと格別な世界に感じました。

東京の下町生まれの下町育ちだった僕が、滅多に乗る事なんて出来ない飛行機に乗って海外に行くなんてとっても想像を超えた世界だったと思います。

そして生まれて初めて見たメキシコの街。当時は大きなアメ車が街の中を走っていたと思います。メキシコの空港からホテルに向かった時の車はシボレーでした。車なんてまず滅多に見る事もなかった日本からいきなり大型のアメ車に乗ってホテル入りだなんて、随分恐れ多い事だと思います。

そして翌日メキシコからプロペラ機で向かったのがHondurasでした。トンコンティンと言う面白い名前の空港に着いて、どんな思いだったのだろうと思います。

さしあたって家を見つけるまでの間暫く泊まったホテルの事は未だに思い出します。ホテル サボイと言う名前でした。 毎日ホテルの部屋から外を見ていた母がある日意を決してホテルの前の小さなお店で初めて買い物をしました。日本では高級品と言って良いバナナでした。 その日の母が少し興奮気味で嬉しそうだったのを思い出します。

当時の動画が実は今も残っています。父がカメラ好きだったせいで、8ミリビデオを撮っていたのです。音がないのが何とも残念ですが、画期的ですよね。昭和30年代の動画なのですから。何とかこのビデオをDVDに残して、もう一度見直したいと思います。まさに西岸良平の世界が中米の小国に飛び出してしまった世界です。

学校に通う様になった僕と妹が家の庭で制服を着て動いているのが不思議な感じです。9月15日は特別な行事があって、学生は制服を着てスタジアムまで行進するのですが、低学年だった僕らはその行進に加わる事が出来ずに、制服だけ来てまねっこをしているのです。

なつかしいなぁ。。。。 もう二度と戻らない世界。

なんだか思い出が思い出を呼んで話が進みそうな気がして来ました。

お盆2008-08-14 21:40:38

今年もお盆の季節がやって来ましたね。

昨日は旧盆の迎え火で、我が家では亡き母を迎えるための準備をしました。 なすとキュウリの馬と牛を用意して迎え火を焚く毎年の行事です。 たまたま昨日は所用で早く帰る事が出来たので、迎え火には間に合わなったけれど、毎朝しているのと同じ様に仏壇に向かって手を合わせて亡き母の仏前に祈りました。

今年で既に16年が経ってしまいましたが、なんだか母が亡くなってまだそんなに経った気がしません。 そして、今年はいつもとはまた少し違った気持ちで母の前で手を合わせました。なぜなら、先週土曜日に自分の決意を彼女に伝えたからです。もちろん、土曜日に帰宅してから、母にはその報告をしていましたが、今回改めて戻って来た母に報告した、そんな気持ちです。 いつもの様に母は笑顔で僕を見ていた様に思います。

少し例年とは異なるお盆となりました。

そして今日は急遽会社を休んで母の実家に行って来ました。 僕の祖母、つまりはおふくろのお母さんの仏前に行きたいと思ったからです。 祖母は母が亡くなってからも暫く元気で生きていました。母が亡くなる時には遠路母の病床までやって来て、涙を流していました。その時の祖母の事が忘れられなくて、今も心の中にその時のシーンが焼き付いています。

その祖母が亡くなったと聞いたのは、僕がオランダに行っていた時の事でした。欧州にはもう春がやって来ようとしていた4月の事です。悲報を聞いたのは、イースター休みが明けようとしていた日でした。

休み明けに会社に出た際に、祖母を亡くした事をたまたま知った会社のイギリス人から、お悔やみの言葉をもらったので良く覚えています。

あれから既に7年が過ぎ去ろうとしています。

母も祖母も今は一緒に僕の事を見守ってくれているに違いありません。そして、僕はその母を信じて今も毎朝仏前に手を合わせてお願いをしています。

それはまさに先日の土曜日に決意を示したその事です。

まだその後の事は分からないけど、僕はじっと信じて待とうと思っています。よい結果を信じて焦らずに。

またも思い出し話2008-08-15 21:23:26

なんだかんだ言って思い出し話ばかりしているようだけど、 Californiaの話です。

僕が仕事をしていた客先では、隣に工場があって、そこで多くのメキシコ系、中南米系のいわゆるヒスパニックの人たちが働いていました。 当然ながら標準語はスペイン語です。みんな元気にスペイン語を使いながら仕事をしていました。ブルーカラーの人たちはもうほぼ全員がこうしたヒスパニックでしたが、ホワイトカラーの人たちにもかなりの数のスペイン語を母国語としているのではないかと思われる人たちが含まれていました。

さて、僕が気になったのは、そして、今こうして思い出し話で語ろうとしているのは、彼らの給料の支払いについてです。

毎週木曜日と金曜日の仕事が明ける17時頃に一台のトラックがやって来ます。

初めのうちは特に気づきませんでしたが、そのうち慣れるに従って、このトラックに工場で働いている人たちが列を作っているのに気がつきました。

何となく気になって、同僚にこの列の事を聞いてみました。 それは毎週彼らの給料が支払われるためのトラックでした。 従業員は何か紙を持ってその列に加わります。 そしてその後、トラックから現金を貰っているのでした。一週間分の給料を受け取っていたのです。

ちょっと日本では考えられない光景です。 最近は日雇いの労働者の、いわゆる派遣の問題が注目を浴びていますが、そのような現実はあまり目に着く事はありませんでした。しかし、こうしてアメリカでも、また日本でも日給制、週給制で仕事をしている人たちがいたのです。

この工場で驚いたのは、若い人、少し年配の人、男性、女性関わりなく、こうして毎週毎週支払いを受けていると言う事です。

そして、一番の驚きは、一歩この工場から出ると、いかにもお金を持っていそうな人たちが高級そうな車を乗り回して、生活をエンジョイしていると言う格差です。

これが現実と言ってしまえばそれまでなのですが、僕らは一歩間違えるとこの格差の中に取り込まれ、苦しい思いをしなければならないかもしれないのです。

どちらも一生懸命働いていると言う現実は変わらなくても、この格差は厳然として存在します。

それは、子供の頃に僕が中米で感じた格差社会をまさに思い起こさせるものでした。

少しでもこの格差の中で上に這い上がる様に頑張って行かないと行けないのです。 Never give upなんです。この気力を失ったとたんに僕はきっと底なしの沼に落ち込んでいくんだと思います。 そしてその気力の支えを決して失ってはならないのですね。 だから僕は今も頑張って行こうとしているのだと思います。